日本サブカルチャー

世界に知られる日本人

2002/05/28スタート

日本ではあまり知られていなくて、世界では有名な日本人をメインに紹介。

*皆さんの情報提供お待ちしています!


八田與一(土木建築家 1886〜1942) 〜台湾で最も愛される日本人〜


 八田與一は1886年、金沢市に生まれた。東大の土木工学を卒業後、ほぼ同時に台湾総督府土木局につとめた。56歳で亡くなるまでほぼ全生涯を台湾に住み、台湾のために尽くした。
 彼の名前が後世に残るのは、当時アジア一といわれた烏山頭ダムと1万6000キロにおよぶ灌漑用水路の建設にあたり、人情味のある現場責任者として農民に慕われたからである。1920年に着工10年の年月を費やし1930年に完成した工事で、巨大な建設機械がなかった当時としてはとんでもない大規模土木事業だった。しかも場所は植民地である。 烏山頭ダムは、台湾西部の嘉南平野の東方の山地にある。渓流をせき止めた堰堤は1600メートル以上ある。セミ・ハイドロリックフィルという、石や土を組み合わせてコンクリート以上の強度を生み出す石積み工法を用いた。 嘉南平野は台南市や嘉義市を含む台湾最大の平原である。鄭成功が明末に拠点を開き、その後オランダも城を築いたかつての台湾の中心地である。肥沃の地と思われがちだが、平原を流れる河川が少なく、しかも急流だったため、水利としてほとんど機能してこなかった。
 このため20世紀になるまで嘉南平野はサトウキビすら育たなかったといわれる。この嘉南平野は八田與一が建設したダムと1万6000キロにおよぶ網の目のような用水路のおかげで台湾最大の穀倉地に変わった。
 烏山頭ダムから轟音をたてて躍り出た豊かな水は、嘉南平原に張り巡らされた水路に流れこみ、みるみる一帯を潤した。当初半信半疑であった農民たちは、眼前を流れる水に「神の恵みだ、天の与え賜うた水だ」と歓喜の声を上げたそうだ。
 嘉南平原の隅々にまで潅漑用水が行きわたるのを見とどけてから、八田與一は家族とともに台北に去った。八田は太平洋戦争の最中の1942年、陸軍に徴用されてフィリピンに向かう途中、乗っていた船がアメリカの潜水艦に撃沈されて、この世を去った。 3年後、戦争に敗れた日本人は一人残らず台湾を去らなければならなくなった。烏山頭に疎開していた妻の外代樹(とよき)は、まもなく夫が心血を注いだ烏山頭ダムの放水口に身を投げて後を追った。外代樹もまた金沢の人だった。享年46歳である。
 嘉南の農民たちによって八田與一夫妻の墓がその地に建てられた。作業着姿の銅像とともにいまも農民たちの手で守られて、命日の5月8日には現地の人々によって追悼式が行われている。
 台湾の李登輝前総統も「台湾に寄与した日本人を挙げるとすれば、嘉南大用水路を造り上げた八田技師がいの一番に挙げられるでしょう」と語っている。

杉原千畝(1900 - 1986 外交官)と樋口季一郎(日本陸軍少将)〜日本のシンドラー〜


杉原千畝
は第2次大戦中のリトアニア領事代理で、日本外務省からの了解をとりつけることなく(要請はしたが取れなかった)、日本の通過ビザを発給してナチスの迫害から逃れるユダヤ人の海外脱出を助けた。発給したビザの数は約6千と言われる。 なお、第2次大戦前では日本はユダヤ人迫害がないめずらしい国だった。三国同盟締結後も亡命ユダヤ人を迫害するようなことはなかった。当時の欧米(連合国側も含む)ではユダヤ人迫害のある国が大半だった。
戦後、杉原千畝は特に表彰されることもなく退職した。無断発給をとがめられて退職に追い込まれたとする話も多いが、近親者の話はこれを否定するものであるらしい。 1985年1月、杉原千畝はイスラエル政府より「諸国民の中の正義の人賞」を受賞する。これはイスラエル建国に尽くした外国人を対象にした賞であるが、日本人初の受賞だった。その翌年、杉原千畝は他界する。
 杉原千畝よりも知られていないが、樋口季一郎少将(後に中将)が救ったユダヤ人難民の数は約2万と言われる。1937年、8月、樋口は満州の関東軍ハルビン特務機関長として赴任。日独の協力関係を知っていた満洲国はユダヤ人難民の受け入れを躊躇した。これに働きかけてユダヤ人難民の受け入れを実現させたのが樋口季一郎だった。
これに対してナチス・ドイツからは強硬な抗議があったが、処罰などはなかった。第2次大戦後、イスラエル共和国のユダヤ人の恩人を顕彰する碑「ゴールデン・ブック」に樋口季一郎の名前が刻まれた。

宮本茂(ゲームクリエイター) 〜マリオの生みの親〜

1952年、京都府生まれ。1977年任天堂に入社。1981年初めて企画したアーケードゲーム「ドンキーコング」が発売し、大ヒット。1983年には「マリオブラザース」を発売し、1986年「ゼルダの伝説」、1992年には「星のカービィ」、2001年「ピクミン」と、ヒット作を世に送り出し、天才クリエイターとして知られるようになる。特に1985年発売の「スーパーマリオブラザース」は日本国内で681万本、全世界でも売れまくり、現在、任天堂情報開発本部長。
現任天堂株式会社取締役情報開発本部長であり、世界で最も著名なゲーム製作者。「ゲームの神様」とも喩えられる。

早川雪洲(1889〜1973 映画俳優) 〜日本人最初のハリウッドスター〜

明治22年、東京生まれ。シカゴ大学卒。伯父の川上音次郎にしたがって渡米し、トーマス・H・インスに見出された、日本が誇る名優。
最も有名になった作品は映画は「戦場にかける橋」(57)である。斉藤大佐の役を熱演し、アカデミー助演男優賞の候補にも選ばれた。