日本サブカルチャー
2002/05/28スタート
ここではタイトルの通り、日本が世界に誇れるエピソード、中でもあまり知られていないものを紹介します。
1936年(昭和11年)、パリ・東京間を100時間以内に結ぶ懸賞飛行レースが開催された。
フランス人飛行家アンドレー・ジャピーは愛機シムーンに乗り、このレースに参加し、長い旅路の末、12月19日、いよいよ最後の航程として香港から東京に向かって飛び立つが、 肝心の燃料が心細くなっり、更に、九州に近づく頃からは霧も立ち込めて来る。
ジャピーは、このまま飛行しては危険だと判断し、航路の途中にある福岡県博多湾の鷹ノ巣飛行場へいったん着陸しようと考えた。
しかし、不運なことに霧の中で突然現れた背振山(佐賀県)を避けきれず、彼のシムーンは山腹に衝突してしまう(この時の事故の模様を復元した様子が佐賀県の背振山に今も残っている)。
当時、ヨーロッパ諸国の人々にとって、日本という国は未知の場所だった。その山奥に墜落したこともあり、ジャピーは生死をさまよう中で、道の場所の山奥で墜落したことで、死を決意していた。
ところがしばらくするとジャピーのところに、頭に傘をかぶり、片手に鎌を持った、「得体の知れない格好を人達」がたくさんやって来た。
山賊にでも襲われるのかという不安がジャピーの脳裏によぎったが、その不安は間もなく安堵に変わった。
墜落した背振山のふもとにある背振村の村民たちがジャピーを助けに来たのだった。
救助されたジャピーのことは村全体で話題になり、村民全員で彼を救おうという雰囲気になった。
その後、この墜落に関する話題は脊振村だけでなく隣町の神埼町にも広まり、そこで手厚い介護を受け、ジャピーの怪我も徐々に回復する。
さらに神崎町の医師神代辰蔵の進言で、当時、九州では最高の病院であった九州帝国大学病院に送られた。
退院後、ジャピーは再び脊振村にやって来て、そこの小学校の朝礼に出席し、児童達の前で「メルシー ボクー(どうもありがとう)!」と心からのお礼を言ったという。
→この話をあえて取り上げたのは、これは私と間接的ながら関連のある事件だったから。
今は亡き私(徳永)の祖母は佐賀県神埼郡神崎町に住んでいたのである。
だか、この事件を知ったのは、ちょうど亡くなった頃、「教科書が教えない歴史3」を読んだ時なので、祖母に直接聞くことはできなかったが、祖母の妹(事件当時神埼にはいなかった)に話をしたら、神代辰蔵医師のことは良く知っていた。
事件当時、飛行機も外国人も珍しかった時代のこの事件は、当然地元では大騒ぎだったと思われるから、祖母も覚えていただろう。
もうこの時のことを聞けないのが悔やまれる。
トルコ人は親日家が多いそうである。
特にトルコ人は「どこの国に行きたい?」と聞かれたら90%以上が「日本に行きたい」と答えるとか。
好きな理由挙げられるのはまず、「日露戦争での勝利」である。
トルコは日露戦争以前、ロシアに何度もひどい目にあわされたことがあった。
だからこそ日露戦争での小国日本の勝利に感動し、イスタンブールには「東郷通り(東郷平八郎元帥の名が由来)」や「乃木通り(乃木希典大将の名が由来)」がある。
しかし、何よりも大きなトルコの日本好きの理由は、それより少し前のある事件に見ることができる。
1887年に皇族がオスマン帝国(現トルコ)を訪問したのを受け1890年6月5日、軍艦エルトゥールル号は、オスマン・パシャ提督を特使とする初のトルコ使節団を乗せ、横浜港に入港した。一行は上陸すると盛大な歓迎を受け、明治天皇に拝謁して晩餐会が催された。
三ヵ月後の9月15日、目的を果たした一行は、帰国の途につくことになる。
ちょうど台風シーズンにあたるこの時期に出港するのは危険だとして日本の関係者は帰国を遅らせるよう勧めたが、オスマン・パシャ提督は「私たちはアラーの神に守られ、インド洋の荒波を越えてやって来たのです。心配には及びません」と言って出発してしまったと言われる。
しかしエルトゥールル号は神戸に向かって航行中台風に遭い、和歌山県大島の樫野崎沖にて難破・沈没してしまった。
オスマン・パシャ提督を含む587人が死亡する大惨事だった。
生存者は69人で、翌日の未明にかけて岸に流れ着いた人々は、地元大島の住民に救われた。
この大惨事に対して日本は生存者の救助、介護、犠牲者の遺体・遺品の捜索、船の引き揚げなど事後措置を官民あげて手厚く行った。
義援金の募金が広く行われ、樫野崎に慰霊碑も建てられた。生き残った69人は軍艦「金剛」「比叡」により送還された。
イスタンブールの海軍博物館には、今もエルトゥールル号の遺品や日本で作られた哀悼歌の楽譜などが展示されている。
この日本の手厚い措置にトルコの人達は感激した。
これ以来、今日まで日本とトルコは深い友情で結ばれているのである。
→ちなみに、エルトゥールル号遭難4年前の1886年に は、同じく紀州沖でイギリス貨物船ノルマントン号事件が起こっている。
こちらの方は現在も小中高の歴史教科書に掲載されてい て、多くの子供たちも周知の史実である。
難破して沈没する船を放置して船長のドレイク以下外国人船員 は全員がボートで脱出、乗り合わせていた日本人乗客25名は見捨てられ、全員船中に取り残されて溺死するという無残な結末と なった。
にもかかわらず、領事裁判権を持つイギリス領事は船長に無罪判決を下した。
のち日本政府は船長を殺人罪で告訴したが、3ヶ月の禁錮程度で賠償は一切却下。まさに不平等条約の非情さを天下に知らしめた事件である。
それからまもなくエルトゥールル号の遭難事件は起こった。
大島の村民もノルマントン号事件に見られた残酷な仕打ちは知っていたであろう。それでも前述のように異国の人々の救助に献身したのである。
皆さんご存知と思いますが釣りの上手な人を「太公望」というが、この「太公望」に釣りを教えたのは日本人だという。